Archived entries for design

SPAZIOPLAY

Il mondo sta cambiando velocemente.
La società è come un liquido che corre continuamente.

Non c’è più un concetto di stabilità. È tutto fluttuante.

Anche lo spazio commerciale dovrebbe essere molto flessibile, se pensiamo alla velocità del consumismo, dei pensieri e dei gusti.

Il negozio come spazio di vendita può essere molto leggero, trasformabile e non costoso, adeguando il cambiamento veloce del consumismo.

Lo spazioplay, perché ormani tutto è un gioco.

MIyuki Yajima di  S.C.Artroom

 

@COSTRUZIONI: Corso Garibaldi 5E, PAVIA// Concept and Space Design, & Artisanal Realization by S.C. Artroom

REFLECTION デザイン再考

ネアンデルタール人の時代から10万年が経っている。
その時代から、人類は道具を作り、花を飾り、小さな岩
に座って、より心地の良い暮らしを心がけてきた。
長い年月と共に、人の暮らしの内容も方式も変わり、技術も
変わり、使用できる素材の幅も大いに広がって、人類は
望む暮らしのあり方を各々が選択できるほどに、道具や家具の
製造に力を入れてきた。
椅子、机、車、コンピューター、等々。
10万年というもの、道具と家具を考案し続け、作り続け、
購入し続けてきている。
快適な暮らし、という名目のために。
これはしかしながら、逆に道具や家具によって我々人類の暮らしが
操られているということでもある。

現代の各種の環境の問題、素材の浪費の問題、食料の問題。
これらに脅かされつつ、しかしながらこれらはいずれも我々が
生産し続けてきたことの利子であることを苦い思いで
かみ潰している。
ここに至って、そろそろ、我々は10万年踏襲し続けてきた
手法が問題多き現代そして未来においても有効であるのか否か、
についての考証が必要になっていると思う。

人類は、少し前からすでに、快適さを求める時代から、健康な暮らし、安全な暮らしといった人間の存在を守る時代にある。
健康な暮らし、安全な暮らしとは何かといった、人間の存在を守るという意識が必要な時代にある。

快適さを追求し続けてきたこの10万年から、安全、健康といった人類を
守る時代へ。こうした意識の変革が必要な現実に人類は生きている。
意識の変革がもたらすデザインの方向の変化について敏感になるべきである。

各々が道具や家具を使おうとするにおいて、自分の意識と
判断に照らし合わせる、つまり、自分が自分を守るにおいて、有効な
道具や家具の選択をしていくことが必須となっていくことだろう。

今回の対談シリーズは、こうした意識の変革がもたらす道具や家具のデザイン
の変革を考えるヒントを与えてくれるはずである。

矢島みゆき

スタジオ日記。



本日の仕事。
1。ある有力ブランドの広告戦略の1企画の恊働スタジオとなった。2013年春からの仕事である。喜ばしいことである。
2。50年代から、イタリア製、と言う単語の同義語を勤めてきたブランドのひとつ、靴のFRAGIACOMO フラジャコモ。昨年、そのオーナが変わって、すべてが新しくなる事になった。
新店舗は VIA TURATI に開く。その工事が今日から始まった。店舗設計は、我々のスタジオである。空間のデザインが設計どおりに完成するか否かは、工事現場の人々の理解次第だ。細部に至るまで設計の意図を克明に説明し、日々、管理しなくてはならない。設計意図を共有できてエネルギーの統合がなれば、一歩一歩完成に向かう日々は、各専門家の大きな感激の相乗効果で幸福感にはち切れんばかりに成る。その逆の場合には悲惨なものであろう。そのために我々のスタジオでは、毎回、施行会社を自分たちで選んできた。
ところが、今回は、既に施主が施行会社を用意していた。アーメン。
具象の柄
幼いときから、具象的な絵柄に関心を持ったことがなかった。小学校の卒業時に学校に残したレンガの上のレリーフも教師はそれぞれ自分の肖像を刻むようにと指導していて、私以外の生徒は自分の顔に近づけた絵にしようと、悪戦苦闘していた。私は、いわばピカソの人物画のような、左右非対称で極端にデフォルメされた顔を描いて悠々と作業を終えた。中学生になるとピカビアをとても好きだと思った。大学生になってからはシュビッタースとかハンスリヒターとか、そういった名前を引っ張り出してきては、彼らについての,あるいは彼ら自信が綴った本の翻訳にのめり込んだ。大学を卒業した頃、私が心酔していたS教授が、ベレンソンの “ ルネッサンスのイタリア画家 ”、という本を必ず読むようにと、半ばそれを強制した。私が具象的な絵画を注意して眺める、それが初めての体験であった。
その後は何の意識もなく、具象も抽象もコンセプチュアルの区別もなく、目の前に在る/やってくるあらゆるものに積極的な関心を持つ日々になった。少し大人に成ったと言う事であったかもしれない。
そして今、イラストレーターのファブリツイオさんのイラストを使ったインテリアテキスタイルの新コレクションが、2013年の4月1日からコインという百貨店のブランドとして販売が始まる。先週、それについての記者会見があった。我々のスタジオはこのプロジェクトの恊働スタジオとして仕事をする。このテキスタイルは、すべてある種の具象的な柄から成っている。それを見た瞬間から現在に至るまで、何と愛らしいのだろう、と思い、思い続けている。このイラストレーターの性格と育ち方の一部を見た気がした。これが逆に抽象的な柄や幾何柄だったら、ココロが動かなかったかもしれない、とも思う。人もものも変わるものなのだ。                                                矢島みゆき
写真はリビアングラス。

本を作る。

時々、本を作る。

こういう本はどうだろう,と考えついて作る本もあれば、頼まれて作る場合もある。テーマを与えられて一冊丸ごと書くこともあるが、その場合にはほとんど私が好むような装丁になる事はない。矢島みゆき

再利用のワークショップ。

矢島みゆきの講義風景。天江尚之がスタジオで使用している椅子。静岡でのワークショップでの完成した作品一例。静岡でのワークショップ風景。静岡のデザイン学校での講義タイトル。

穏やかな空気が一杯に詰まった静岡の街。そこのデザイン学校で3日間の講義とワークショップをする事になった。我々のスタジオの得意とする技は、どのようなものを見てもそのなかに美しさを見いだせる事。従ってゴミを使ってでも人の心を動かし得る何かを創り出す事ができる事。その精神を学生たちに伝えたいと思った時に今回のワークショップのアイデアが生まれた。うちのスタジオの一員、天江尚之はこのように語る。それはそのまま、うちのスタジオの精神の一部を代弁してもいる。

”僕は’74年の生まれです。僕らの世代にとって、自分の身につけるものにほんのわずかでも手を加えるというのは、それほど珍しい行為ではないと思う。中学生のころから、買ったパンツの裾を少し広げてみるとか、スニーカーのひもの色を毎日交換するとか、そういったことは当たり前に行っていました。他人と違う物を着たいというよりも、行為そのものを愉しいと思っていたように思います。幼いときから、一歳年上の兄と何かを作って遊ぶということを日常にしていたことも確かに、動機の一つでしょう。今、使っているショルダーは5年程前に日本で購入した、なんでもない藍染めの袋です。これに刺繍をしたのが、本格的な刺繍の作業の始まりでした。極細い、ともすれば折れてしまいがちな針を使って、日本の極上の細い絹糸で一刺し一刺ししていくのは、いわば瞑想することに等しいのです。このショルダーの、ふたを開けた内側に刺されているこの絵は、僕の意思的意思ではなくて、手が勝手に動くようにして出来上がっていったものなのですが、そういう精神状態にまで昇華できるのです。刺繍の技術は、別に誰に教わった訳でもありません。2年間だけ暮らしたシリアではたくさんのパレスチナ刺繍を見ましたから、今ではそこから得た何かも含まれてしまっているとは思いますが。

大体、世の中に買いたいと思えるものがあまりないのです。僕が美しいと思う対象は、例えば、路上に捨てられた後に雨に打たれて一部分がめくれてきているような段ボールとか、建物の壁面に何重にも重ねてはられたポスターが時の経過とともにはがれてきて、下のほうにあった色がひょっこりと顔を出している状態とか、錆び付いた鉄板の上にさらに塗料が落ちたり、傷がついたりすることで表面に複雑な表情が見られることとか、分厚いガラスのコップの底を通過する光が、その下に敷かれた白い紙の上に見せる絵とか、そういう絵をコンピューターにかけた時に現れてくる、この世のものとは思えない強烈な光と色の世界とか、そいったもの

いつもどこへ行くにも自転車なのですが、自転車である速度で走っていても、路上や木の上や建物の壁面や、あらゆるところに多分、視線が走っているのです。だから毎日、大小に関わらず拾い物をする事が多い。何度となく自転車にひかれてぺちゃんこになっているビールビンのふたや、道ばたに転がっている車のメーカーのマーク入りの鉄片とか、どこからやってきたのかもわからないアスファルトのかけらとか、幼児が手にはめていたのかもしれない色付きのプラスチック製の腕輪とか。どこかの樹木からはがれ落ちてきた木の皮とか。すっかり乾ききったレモンの果実とか。買い物をしたときに入れてくれたプラスチックの袋なども、グラフィックが気に入ると取っておきます。仕事上の必要があって文房具に行くときには、もう誰も振り返る事すらしないためにうっすらと誇りを被っているような大量の紙とかノートとか鉛筆など、そういうものにも大いに惹かれますね。特に紙が茶色く変色してしまっている昔のノート等は大好きです。シリアのスークの影響もあるかもしれませんが、ミラノではキッチュといって人々が好まないような、中国の安手の商品も好きですよ。独特な色合いや手軽なデザインアプローチの明るさ、気軽さが好きなんです。もちろん、のみの市には頻繁に出かけます。必ずしも古い物ばかりを見る訳ではありません。僕は別にイデオロギーで服や物を作っているわけではないのです。捨てられてその辺に縮こまってしまっている物とか、のみの市に放り出されてしまったような、まだ生命があるのに、その生命が無視されているような物を見いとおしい気持ちが働くのです。そして、それでは僕がこれらの生命をよみがえらせてやろうではないかと思って、ものつくりに向かうのです。

古い服を使って、それらを素材に何かを作ろうと思うときには、機能的であるとか、合理的であるといったことは一切、頭に上りません。ただひたすら、自分が納得するように、拾ったものなどいろいろと組み合わせていくのです。せっかく出来上がっている服を、敢えて切り取って使う等と言う事も僕にはできません。逆に、アスファルトのかけらを鞄にくっつけることなら、容易にできます。鞄作りはさらに気分が自由です。いわば、オブジェを作り上げるようなものでしょうか。何となく路上につながるような開いた世界が、今の僕の気分を満足させてくれます。先入観とか規則とか、秩序とか、道徳とか、自由に反するあらゆるものを自分の中から取り払って行くことが願いです。僕がアートデイレクターと話しながら作かばんや服や空間やイメージや音楽は、その願いの反映に過ぎないのです。”     インタビューと文 矢島みゆき

 

Made in Japan @ Triennale Milano

i miei fiori



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