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グローバルとローカル

10月30日、東京は渋谷区にある文化学園大学大学院の高木陽子教授の学生に講義を行った。

テーマはファッションにおけるグローバルとローカル。延々とグローバルな市場構築のために骨折ってきたファッションシステム。外からの技術や情報を仕入れて加味して行くのみならず、各地特有のローカルな文化や手仕事素材等をその地において育成し、それぞれを組み合わせて産業化していくことで、より広い市場を獲得する、という考え方についての話である。近年においては、アフリカがその好例として挙げられる。アフリカの女性たちが培った様々な手仕事。それらとイタリアの例えば、バッグ製造上及び市場の上のノーハウを組み合わせて、新しい製品を作り、新たな市場を開拓する。グローバルとローカル,すなわち、グローカルの考え方である。フェンデイのカルミナカンプス、そしてサマンといったブランドが実例として存在している。搾取から共同事業へ。植民地化から国境の開放へ。現象だけをとらえると幸せな選択に思われる。今後の展開を厳しい眼で見守るつもりである。 矢島みゆき

 

 

Beyond Comformity    High Fashion no. 288 dec.2002 -

Beyond Conformity 手仕事はモードを変えるのか?

「人々は、規格品でなく、自分だけの物を求めはじめている。」  「物を創り出す」ということが、創造的行為であるとは限らなくなってしまって久しい。創造は、新しい価値を創り上げることにほかならない。既存の製品のレプリカや従来の商品のバリエーションを創って世に流すのは、いわば公害的行為である。すでに膨大な量の物品があふれ返る今の世の中に、類以の商品をさらに追加していくのは、企業として在るべき姿ではない。  一方、新しい価値を創り出そうとする創造には意味がある。新しい価値を創り出すのに、規格化されたシステムは邪魔な存在でしかない。物創りの発想の源を自分の中に持っていること。豊かな感動の体験を蓄えていること。アイデンティティが明確であること。創造に必要なのは、何者にもとらわれることのない自由な精神だ。  経済を軸としたグローバリゼーションの進行するただ中にあって、情報の量は一段と増し、情報の種類も一段と多様になって、しかも情報の収集能力の差も金銭で補うことができるようになって、あらゆる創造は柔軟な頭脳といちはやい判断の表現にほかならない直感に大きく依存するようになってきている。アートの台頭はまさにその表れである。  一方、消費する側の立場から言えば、大量生産のシステムに支えられた商品が、広告効果でその商品についてのイメージ情報を頭の中にしっかりと刷り込まれてしまったがゆえにほぼ自動的に、そうした広告商品に手が伸びてしまうことに反発を感じはじめている消費者の層が広がりつつある。人々の関心は、今や「うわべの見かけ倒し、すなわちイメージ」から「実質」のほうに向かいはじめている。アイデンティティの明解な商品を求めるようになっているのである。  イタリアの工業生産システムも、洗練された同時に合理化されて、それがゆえに大量の品物の生産が可能となり、高級品の一般への普及が始まったのが’80年代だった。ところが、皮肉なことに、それがゆえに各ブランド間の差異が減って人々の商品に対する関心が下がっていく結果を招いたのである。  今、人々は「ほかにはない物、自分だけの物、あるいは少なくとも容易に入手ができない物」を求めはじめている。   それは一つ、服飾業界の世界にとどまらない。ベルリンやチューリッヒのクラブカルチャーは、まさにこのコンセプト下にある。廃墟や無人の建物の一部をあててスペースを確保し、美しく手を入れてしまうのではなくて在るがままの空間を利用する。そこに古家具や簡易に創り上げた、必要最低限の什器を設置する。大方は、いすと台所、カウンター、そして音楽設置と光だ。テンポラリーな雰囲気に、これまでにない新鮮な魅力が感じられる。貴重な素材をたっぷりと使って、美しい伝統的なプロポーションに仕上げるという作業が古めかしく思われるのが不思議だ。美しく仕上げる、という言葉の持つ意味が大きく変化してしまったのである。 一事が万事。ミラノのファッション状況も急速に変わりつつある。プラダやグッチやアルマーニが健在である今においても、ミラノの町の外れ地域や元の学生運動の拠点地だったチェントロ•ソチャーレに、現在集まってくる大学生たちの格好は、前述のベルリンやチューリッヒのクラブ空間のデザイン状況に類以している。のみの市で見つけてきた古着に装飾を加えて手持ちのほかの服と組み合わせて着たり、さらにエスニック要素を加えたり。コラージュやフュージョンの考え方である。異なる種類の情報の組み合わせである。情報の切り取り方と組み合わせ方が、独自の個性を提示する。そうすることで自分だけのスタイルを創り出す。  「創る」ことへの憧憬が大きくなるほどに、人々の、既製品からの離脱は進んでいく。ストリートに見られるファツションは、大衆化したグローバルな大量生産品への関心、あるいは嫌悪を表している。いわば、’70年代ヒッピー的精神の再来である。   ミラノのプレタポルテのメゾンの動きにも、こうした傾向は明確に見て取れる。  古い布や伝統的な手刺繍やエスニックなどを盛り込んで「ヒッピーシック、リサイクル、レトロ、エスニック、グローバル」といったデザインを見せるアントニオ•マラス。表現こそ違え、考え方においては近いマウリツィオ•ペコラーロ。’80年代の売れ残り品に加飾して新製品を作り上げるパロシュ。断片を再構成し糸を加えて、あえて古着の再利用に見せかけている。’’アラバマ’’や’’中国長城’’。染めや手がきで一点物を強調したローカ。これらの動きをいち早く提案したマルニ。同じ考え方えを暮し全般にまでひろげつつあるサンプラス。単なるトラッシュアート、単なるリサイクルというイデオロギーにとどまらず、音楽にしかり、食物にしかり、日常の暮しの中に、これらのフュージョン感覚が具体的な形を成してきているというのは、見逃せない動きである。 矢島みゆき High Fashion 12 December 2002 No.288

アルマーニの背中  ウィンズ12/1990

アルマーニの背中

  アルマーニのコレクションには、ピアチェンツアでの幼少時代の記憶が散りばめられているように思える。まるでフェリーニが生誕地リミニの思い出から、名作「フェリーニのアマルコルド」を撮影したように。現在アルマーニを知るためには、彼の人生を遡っていくことが、いちばんの早道なのかもしれない。

バイヤーからデザイナーへ 
「モードの道に入るとは考えていなかった」
と,いうジョルジオ•アルマーニ。彼のデザイナーとしてのキャリアは、「ニノ•セルッティ」から始まるが、その基盤を作ったのはデパート「リナシェンテ」での7年間だった。
 活気にた充ち充ちていた50年代のミラノ。偶然のことから入社したリナシェンテで、バイヤーのアシスタントの職に就いたアルマーニは、イタリア各地の関連会社を回りつつ直接的にモードのメカニズムを学ぶ。さまざまな階層の人々が集まるデパートでは、それぞれの人の趣味の違いや志向の変化する速度、そして売れる服とは何かということなどを教えてくれた。
 「その頃の私はまだミラノが分からず、生きるのもかなり下手でした」
と、アルマーニは当時を回想する。
 セルッティに移ったのは7年後の1964年。そこでは、アイディアをインダストーリーの能力でいかに表現し尽くすかを学んだ。1974年に共同経営社となるガレオッティ氏に出会ったことで、アルマーニはさらにモードの道へ自ら推し進めることになる。建築や工業デザインのプロジェクトの進め方に慣れていたガレオッティの力を得て、アルマーニの服作りに臨む態度は一層、インダストリアル•デザイナー的な内容を濃くしていく。
 決してアーティストの服作りではない。常に、工業生産システムにのせられる内容だけを完璧に現実させていくというやり方だ。アルマーニは、工業的に服を生産することの意味や限界を熟知している。インダストリアル•システムの抱える限界は、彼にとっては逆に創造力を刺激するものになっているようですらある。

インダストリーが服を作る
 オートクチュールはいわば職人の仕事である。プレタポルテこそがインダストリーと連動して実現し得る仕事だ。工業的手法によって、豊富なバリエーションの美しい服を作っていくのは、ひょっとするとオートクチュールの手法によりむずかしいもではないか。アルマーニはアイディアを工業的要因に分割して、さらに組み立て直す力を持っている。彼のそうした能力とイタリアのメーカーの能力とが結合することによって、アルマーニの今のコレクションが存在する。
 アルマーニがパートナーを組んでいるイタリアの最大手のひとつG•F•T社は、主にアメリカ向け商品を制作するインダストリアル•メーカー。G•F•T社は、すべての製品について細部に至るまで、コストを下げ、質を上げていくという点に留意したシステムにのせて製造を行う。そうしたシステムを完璧に理解して仕事に臨んでいることが、アルマーニを現在の成功に結びつけたといえるだろう。
 だいたい、50年代のイタリアでは、インダストリアルも生産ラインの服では肉体の欠点をさらけ出しても仕方がないという認識が普通だった。体の欠点を隠したければ、仕立て屋に足を運ぶしかなかった。そうした時代にアルマーニは、セルッティに籍を置きながらすでにインダストリアル•メーカーを使って、人体をよりきれいに見せる服を現実させようと務めていた。
 それまでのアメリカ式のストンとした平らなジャケットを良しとせず、肩をより大きくし、ウエストを少し絞って、後身頃の丈を前身頃よりいくらか短か目にすることで背を高く見せる。「使いこなした服は新しい服よりエレガントである」「ファット•ウノのように、すべての人によって肯定的に受け止められ、かつ細部においては他とは違う、というのが真のエレガンスだ」「服は売れた時こそが、成功したときなのである」というコンセプトを持ち、裏布を取り払って、柔らかい仕上がりのジャケットを作りだしたのである。しかも工業生産の工程にしっかりのせて。 
 世の中の変化を見るのに敏感なアルマーニは、1965年にはすでに、                           「イタリアは変わりつつある。他人に見せるために人は服を着始めている」                      と、来るべき「モードがステイタス」という時代を読んでいた。
 こうして、74年の独立を契機に、アルマーニはとどまることを知らずに、常に時代の風を人一倍早く敏感に感じとりながら、またたく間に時代の寵児となった。
彼は育った町が、彼を育てた
 赤レンガの市庁舎が建つ「馬の広場」には、毎週、近郊から農作物が運ばれて市が開かれる。広場には農作物を運んできた黒い自転車が何台もつながれている。
 1930年代のエミリアロマーニャ州、ピアチェンツア。戦時下にあっても、この町は豊かだった。農作物は、相変わらず収穫されていたからだ。
 暑い夏の日曜日。 
 広場にある教会にも、そして広場にも多くの人が集まってくる。
 くすんだグレーのジャケットにグレーのジレ(ベスト)、細く長い衿のシャツにグレーのネクタイ、頭にはグレーの帽子を被った男たちは、農民である。女性たちは、まる衿の、花柄が散るコットンのグレーのワンピースを着ている。前身頃に3〜4つのボタンが並んでいる、ウエストを絞った細身のワンピースだ。足元は白い靴下にローヒールを合わせて。
 医者や弁護士などは、生成りのリネンのスーツを着ている。ウエストがやや絞り気味で肩の張ったジャケットに裾つぼまりで腰までゆったりとしたパンツ、そしてパナマ帽。白いシャツは長く細い衿。ネクタイは幅広のクリーム色。艶消しの白い靴をはいている。
 子供たちはというと、お下がりの、ひざ下丈のグレーのズボンをズボンつりをつけてはいている。そしてウールの白いTシャツにサンダル。
 アルマーニは1934年、このピアチェンツアに生まれた。彼の子供時代は、イタリアがファシズムから戦後を経て、ナイロンの靴下やチューインガムをもたらしたアメリカへの憧れを抱き始めた時代だった。アルマーニは、まさにこうした30年代、40年代のピアチェンツアの人々の装いに大きく重なっている。自身、幼少期を過ごした30年代の記憶へのノスタルジーがストーリーになって散りばめられるているように思われる。
 1974年の独立以降、あらゆる賞を次々にさらい、「今日のモード界における天才」と謳われるアルマーニの輝かしい履歴書の裏側には、彼の育った時代の田舎の静けさに通ずるものが明らかに見え隠れしている。シンプルで極端さを回避したモード、そして凝った素材、アルマーニのコレクションのこうした特徴はまさに他ならない。
 アルマーニのコレクションの中にはイタリアの会社が戦後、アメリカ軍の進駐以降すっかり失ってしまった地方都市のゆかしい伝統や倫理や目立たぬことを良しとするエレガンスなどが今に息づいている。それは、そのまま昔の上質な生活の提案ででもある。
 ジョルジオ•アルマーニは、時代を読む力において、また現実を見て取る力において現代人の中でも最たる現代人である。それでいて彼の心の中には、かつての伝統社会の風景がしっかり生き続けている。
 アルマーニはこのふたつのベクトルを抱え続けながらモードを通じて彼自身の歴史を刷り直しているかのようだ。

ウインズ 日本航空国際機内誌 December 1990  矢島みゆき



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