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本を作る。

時々、本を作る。

こういう本はどうだろう,と考えついて作る本もあれば、頼まれて作る場合もある。テーマを与えられて一冊丸ごと書くこともあるが、その場合にはほとんど私が好むような装丁になる事はない。矢島みゆき

再利用のワークショップ。

矢島みゆきの講義風景。天江尚之がスタジオで使用している椅子。静岡でのワークショップでの完成した作品一例。静岡でのワークショップ風景。静岡のデザイン学校での講義タイトル。

穏やかな空気が一杯に詰まった静岡の街。そこのデザイン学校で3日間の講義とワークショップをする事になった。我々のスタジオの得意とする技は、どのようなものを見てもそのなかに美しさを見いだせる事。従ってゴミを使ってでも人の心を動かし得る何かを創り出す事ができる事。その精神を学生たちに伝えたいと思った時に今回のワークショップのアイデアが生まれた。うちのスタジオの一員、天江尚之はこのように語る。それはそのまま、うちのスタジオの精神の一部を代弁してもいる。

”僕は’74年の生まれです。僕らの世代にとって、自分の身につけるものにほんのわずかでも手を加えるというのは、それほど珍しい行為ではないと思う。中学生のころから、買ったパンツの裾を少し広げてみるとか、スニーカーのひもの色を毎日交換するとか、そういったことは当たり前に行っていました。他人と違う物を着たいというよりも、行為そのものを愉しいと思っていたように思います。幼いときから、一歳年上の兄と何かを作って遊ぶということを日常にしていたことも確かに、動機の一つでしょう。今、使っているショルダーは5年程前に日本で購入した、なんでもない藍染めの袋です。これに刺繍をしたのが、本格的な刺繍の作業の始まりでした。極細い、ともすれば折れてしまいがちな針を使って、日本の極上の細い絹糸で一刺し一刺ししていくのは、いわば瞑想することに等しいのです。このショルダーの、ふたを開けた内側に刺されているこの絵は、僕の意思的意思ではなくて、手が勝手に動くようにして出来上がっていったものなのですが、そういう精神状態にまで昇華できるのです。刺繍の技術は、別に誰に教わった訳でもありません。2年間だけ暮らしたシリアではたくさんのパレスチナ刺繍を見ましたから、今ではそこから得た何かも含まれてしまっているとは思いますが。

大体、世の中に買いたいと思えるものがあまりないのです。僕が美しいと思う対象は、例えば、路上に捨てられた後に雨に打たれて一部分がめくれてきているような段ボールとか、建物の壁面に何重にも重ねてはられたポスターが時の経過とともにはがれてきて、下のほうにあった色がひょっこりと顔を出している状態とか、錆び付いた鉄板の上にさらに塗料が落ちたり、傷がついたりすることで表面に複雑な表情が見られることとか、分厚いガラスのコップの底を通過する光が、その下に敷かれた白い紙の上に見せる絵とか、そういう絵をコンピューターにかけた時に現れてくる、この世のものとは思えない強烈な光と色の世界とか、そいったもの

いつもどこへ行くにも自転車なのですが、自転車である速度で走っていても、路上や木の上や建物の壁面や、あらゆるところに多分、視線が走っているのです。だから毎日、大小に関わらず拾い物をする事が多い。何度となく自転車にひかれてぺちゃんこになっているビールビンのふたや、道ばたに転がっている車のメーカーのマーク入りの鉄片とか、どこからやってきたのかもわからないアスファルトのかけらとか、幼児が手にはめていたのかもしれない色付きのプラスチック製の腕輪とか。どこかの樹木からはがれ落ちてきた木の皮とか。すっかり乾ききったレモンの果実とか。買い物をしたときに入れてくれたプラスチックの袋なども、グラフィックが気に入ると取っておきます。仕事上の必要があって文房具に行くときには、もう誰も振り返る事すらしないためにうっすらと誇りを被っているような大量の紙とかノートとか鉛筆など、そういうものにも大いに惹かれますね。特に紙が茶色く変色してしまっている昔のノート等は大好きです。シリアのスークの影響もあるかもしれませんが、ミラノではキッチュといって人々が好まないような、中国の安手の商品も好きですよ。独特な色合いや手軽なデザインアプローチの明るさ、気軽さが好きなんです。もちろん、のみの市には頻繁に出かけます。必ずしも古い物ばかりを見る訳ではありません。僕は別にイデオロギーで服や物を作っているわけではないのです。捨てられてその辺に縮こまってしまっている物とか、のみの市に放り出されてしまったような、まだ生命があるのに、その生命が無視されているような物を見いとおしい気持ちが働くのです。そして、それでは僕がこれらの生命をよみがえらせてやろうではないかと思って、ものつくりに向かうのです。

古い服を使って、それらを素材に何かを作ろうと思うときには、機能的であるとか、合理的であるといったことは一切、頭に上りません。ただひたすら、自分が納得するように、拾ったものなどいろいろと組み合わせていくのです。せっかく出来上がっている服を、敢えて切り取って使う等と言う事も僕にはできません。逆に、アスファルトのかけらを鞄にくっつけることなら、容易にできます。鞄作りはさらに気分が自由です。いわば、オブジェを作り上げるようなものでしょうか。何となく路上につながるような開いた世界が、今の僕の気分を満足させてくれます。先入観とか規則とか、秩序とか、道徳とか、自由に反するあらゆるものを自分の中から取り払って行くことが願いです。僕がアートデイレクターと話しながら作かばんや服や空間やイメージや音楽は、その願いの反映に過ぎないのです。”     インタビューと文 矢島みゆき

 

グローバルとローカル

10月30日、東京は渋谷区にある文化学園大学大学院の高木陽子教授の学生に講義を行った。

テーマはファッションにおけるグローバルとローカル。延々とグローバルな市場構築のために骨折ってきたファッションシステム。外からの技術や情報を仕入れて加味して行くのみならず、各地特有のローカルな文化や手仕事素材等をその地において育成し、それぞれを組み合わせて産業化していくことで、より広い市場を獲得する、という考え方についての話である。近年においては、アフリカがその好例として挙げられる。アフリカの女性たちが培った様々な手仕事。それらとイタリアの例えば、バッグ製造上及び市場の上のノーハウを組み合わせて、新しい製品を作り、新たな市場を開拓する。グローバルとローカル,すなわち、グローカルの考え方である。フェンデイのカルミナカンプス、そしてサマンといったブランドが実例として存在している。搾取から共同事業へ。植民地化から国境の開放へ。現象だけをとらえると幸せな選択に思われる。今後の展開を厳しい眼で見守るつもりである。 矢島みゆき

 

 

Beyond Comformity    High Fashion no. 288 dec.2002 -

Beyond Conformity 手仕事はモードを変えるのか?

「人々は、規格品でなく、自分だけの物を求めはじめている。」  「物を創り出す」ということが、創造的行為であるとは限らなくなってしまって久しい。創造は、新しい価値を創り上げることにほかならない。既存の製品のレプリカや従来の商品のバリエーションを創って世に流すのは、いわば公害的行為である。すでに膨大な量の物品があふれ返る今の世の中に、類以の商品をさらに追加していくのは、企業として在るべき姿ではない。  一方、新しい価値を創り出そうとする創造には意味がある。新しい価値を創り出すのに、規格化されたシステムは邪魔な存在でしかない。物創りの発想の源を自分の中に持っていること。豊かな感動の体験を蓄えていること。アイデンティティが明確であること。創造に必要なのは、何者にもとらわれることのない自由な精神だ。  経済を軸としたグローバリゼーションの進行するただ中にあって、情報の量は一段と増し、情報の種類も一段と多様になって、しかも情報の収集能力の差も金銭で補うことができるようになって、あらゆる創造は柔軟な頭脳といちはやい判断の表現にほかならない直感に大きく依存するようになってきている。アートの台頭はまさにその表れである。  一方、消費する側の立場から言えば、大量生産のシステムに支えられた商品が、広告効果でその商品についてのイメージ情報を頭の中にしっかりと刷り込まれてしまったがゆえにほぼ自動的に、そうした広告商品に手が伸びてしまうことに反発を感じはじめている消費者の層が広がりつつある。人々の関心は、今や「うわべの見かけ倒し、すなわちイメージ」から「実質」のほうに向かいはじめている。アイデンティティの明解な商品を求めるようになっているのである。  イタリアの工業生産システムも、洗練された同時に合理化されて、それがゆえに大量の品物の生産が可能となり、高級品の一般への普及が始まったのが’80年代だった。ところが、皮肉なことに、それがゆえに各ブランド間の差異が減って人々の商品に対する関心が下がっていく結果を招いたのである。  今、人々は「ほかにはない物、自分だけの物、あるいは少なくとも容易に入手ができない物」を求めはじめている。   それは一つ、服飾業界の世界にとどまらない。ベルリンやチューリッヒのクラブカルチャーは、まさにこのコンセプト下にある。廃墟や無人の建物の一部をあててスペースを確保し、美しく手を入れてしまうのではなくて在るがままの空間を利用する。そこに古家具や簡易に創り上げた、必要最低限の什器を設置する。大方は、いすと台所、カウンター、そして音楽設置と光だ。テンポラリーな雰囲気に、これまでにない新鮮な魅力が感じられる。貴重な素材をたっぷりと使って、美しい伝統的なプロポーションに仕上げるという作業が古めかしく思われるのが不思議だ。美しく仕上げる、という言葉の持つ意味が大きく変化してしまったのである。 一事が万事。ミラノのファッション状況も急速に変わりつつある。プラダやグッチやアルマーニが健在である今においても、ミラノの町の外れ地域や元の学生運動の拠点地だったチェントロ•ソチャーレに、現在集まってくる大学生たちの格好は、前述のベルリンやチューリッヒのクラブ空間のデザイン状況に類以している。のみの市で見つけてきた古着に装飾を加えて手持ちのほかの服と組み合わせて着たり、さらにエスニック要素を加えたり。コラージュやフュージョンの考え方である。異なる種類の情報の組み合わせである。情報の切り取り方と組み合わせ方が、独自の個性を提示する。そうすることで自分だけのスタイルを創り出す。  「創る」ことへの憧憬が大きくなるほどに、人々の、既製品からの離脱は進んでいく。ストリートに見られるファツションは、大衆化したグローバルな大量生産品への関心、あるいは嫌悪を表している。いわば、’70年代ヒッピー的精神の再来である。   ミラノのプレタポルテのメゾンの動きにも、こうした傾向は明確に見て取れる。  古い布や伝統的な手刺繍やエスニックなどを盛り込んで「ヒッピーシック、リサイクル、レトロ、エスニック、グローバル」といったデザインを見せるアントニオ•マラス。表現こそ違え、考え方においては近いマウリツィオ•ペコラーロ。’80年代の売れ残り品に加飾して新製品を作り上げるパロシュ。断片を再構成し糸を加えて、あえて古着の再利用に見せかけている。’’アラバマ’’や’’中国長城’’。染めや手がきで一点物を強調したローカ。これらの動きをいち早く提案したマルニ。同じ考え方えを暮し全般にまでひろげつつあるサンプラス。単なるトラッシュアート、単なるリサイクルというイデオロギーにとどまらず、音楽にしかり、食物にしかり、日常の暮しの中に、これらのフュージョン感覚が具体的な形を成してきているというのは、見逃せない動きである。 矢島みゆき High Fashion 12 December 2002 No.288

スタジオ日記。2012年11月27日。

時折、若い学生がスタージュをしたいと言って、連絡をよこす。うちのスタジオは夜中まで詰めて仕事をするので、とてもついては来られないと思う、と返事をする。何かを創る仕事と言うのは、時間に区切りがない。夢中になって何かを作っているときに、時間だからと手を休めてしまったら終わりである。研修生というのは往々にして、自分について自信があり過ぎる。何がそうさせるのかは分からない。単にコンピューターの操作が少しできると言う事への自信にすぎない。持久力、耐久力が少ない。我慢ができない。文句が多すぎる。感謝の念が全くない。高校生は良い。少なくとも謙虚である。毎年、カラヴァッジョといいう高校が生徒を送ってくる。この学校とは良い関係が続いている。                    作成したロゴ。矢島みゆき

今日完成した仕事: コーポレイトアイデンテイテイ。ウェブサイトの作成含む。

クライアント:STUDIO DI COMMERCIALISTA ARIOTTO & ASSOCIATI  A MILANO.

http://www.studioariotto.it

イタリアに会社を開きたい人は、ご相談下さい。

 



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