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スタジオ日記。2012年12月26日。

ナンダヴィーゴは、私に取ってほぼ恐ろしい存在である。これほどに歯に衣を着せぬ物の言い方をする人を、私は他には知らない。これほどに好奇心が旺盛で、行動力に富んだ人もいなかろう。どういう話題で話をしようが、私は毎回たじたじとなる。はいもいいえも言えず、あげくの果ては徹底的に自分を切り刻まれたような気分に襲われて、力つきて家路を辿る。時折、強引に彼女の論理の中に引き込もうとすることもある。それだけは辞めてほしいと思い、明確に自分はそうは思わない、と言い切るのだが、放っておいてはくれない。しつこくしつこく食い下がってくる。そういう力ずくの強引さにも、最後は感心させられてしまうのである。年齢はおそらく80何歳かと思う。正確には知らされていない。こういう強さを私も持ち合わせてみたい,と思わぬでもないが、そうなるともう私は私ではなくなってしまう。記憶の確かさにおいても、知識の深さにおいても、私にはとてもかなわない。とても緻密な思考の持ち主なのである。白黒が驚く程に明確で、曖昧さを許さない。曖昧なまま、放置しておくと言う事ができないのだ。それを他人にも求めてくるところが、唯一の欠点だ。彼女の存在は他には例えようも無い、唯一の存在である。彼女の強さは毎回、私を圧倒する。今日も。。。彼女のウェブデザインも、今日を以てようやく完璧に終了した。 

 

  幼時から不変の建築への関心と、アーティストとの交流から培われた情熱。

 ナンダ•ヴィーゴは建築家である。「前世から建築家だった」と言いきる、根っからの建築家である。

 5歳の時に遠足で出かけたコモ湖で、イタリア合理主義を代表する、ジュゼッペ•テラーニの一連の建築を見たときに、ナンダは「これを私は昔から知っていた。これは私の一部だ」と直感したのだという。「白い光に満ちたその建物の美しさにその場に釘付けになった」のだと。

 そしてもう一人、幼いナンダにとってとても特別な存在に思えたのは、父親の友人でよく自宅にやって来た画家のフィリッポ•デ•ピシスだった。自分の殻に閉じこもっていたデ•ピシスが、ナンダに対してだけは自分を開き、しかもあたりまえのように彼と同年輩の友人に対するような接し方をしていた。家族とデ•ピシス一緒に写った記念写真でも、ナンダだけが開放的な笑みを浮かべている。「人形で遊んだりしたことは一度たりとてなかったわね。デ•ピシスと、まるで大人どうしのような会話を楽しんで過ごしたわ。ひとりの時には、庭の土の上に空想の家をスケッチして、各部屋に家具を配置したり、海に面した居間にバルコニーをつけ加えたり、それを言葉で説明したりするのが常だったという。5歳にして既に建築アートを日常の主要な要素とする、わりにませた少女だったのだ。

 そういう特異なナンダを見て、しつけ係を買って出たのが、ハンガリー系オーストリア人の祖母だった。5カ国語を話すこの女性は、その知性をもって正しい作法や言葉づかい、日々の義務に至るまで、このうえなく厳しいやり方でナンダを導いていった。両親も安心して彼女のしつけ方に期待を寄せていたようだ。当時のミラノの良家の常で、家庭内での会話はフランス語であった。ナンダは、この祖母にあたる女性ともフランス語でアートや異国の文化について意見を交わし合う体験を重ねて育っていったのである。

 ナンダの、飾らず、こびず、はっきりとものを言う性格は、こういうしつけを通じて形成されたものなのだろう。知的好奇心の旺盛さにおいて、美しさ追求する執拗さにおいて、ナンダはまるで活火山のようなエネルギーをあふれ出させる。また、どんなに小さな疑問も、放置しておくことがなく、自ら出かけていって自分の目と頭で確かめずにはいられない。

 必要だと思えば、チベットの山奥でもマダガスカルでも即座に出かけていくのである。彼女がローザンヌ建築学を修めた後に、ロサンジェルスのフランクロイドライトの事務所でインターンをしたのも、ルチオ•フォンタナのアトリエの門をたたいて助手になったのも、後にジオ•ポンティのスタジオに通ったのも、自分の選択による必然の行為であった。

 「そうよ。あの5歳の時の体験以来、アートと建築の両方が私の人生を導いていくのだという確信を持ち続けていたから」

 やがてピエロ•マンゾーニと恋に落ちたナンダは、彼とともにグループ•ゼロの活動やフルクサスの活動を介して、ヨーロッパ中の当時のアーティストや文化人のみならず、オノ•ヨーコや草間弥生、具体などの日本人グループにも交友の輪を広げて、アーティストとしての感性をさらにはぐくみ、やがてそれらの体験を建築プロジェクトに反映させていくことになる。そして、ジオ•ポンティが、アートに深い関心を抱く建築家の手本として彼女の前に現れたのである。彼との1965年からの共同プロジェクト「メネグッツォの家」で、ナンダは、自分の交友の内容をみごとに建築として生かすことができたという。これこそが、ナンダの出発点となった。

 今でこそ増えてきてはいるものの、女性の少ない建築の世界だ。半世紀前の状況は推して知るべしである。そこを持ち前の潔癖さで強引に押し進んで現在に至ったナンダ•ヴィーゴの恐れを知らぬ性格を敬わずにはいられない。年齢を重ねて、少しずつ体の随所にかげりが見えはじめてことを隠しさえしないナンダ。強力な痛み止めを打っても全く効き目がないほどの強い痛みを押して、シチリアの工場現場に出かけていくナンダ。マルタン マルジェラの服を着こなし、フォンタナのアクセサリーで身を飾るナンダからは、そういう事情はひとひらも感じることができない。自分に対しての厳しさは、彼女が自分の中に獲得しきった才能の一つなのである。

High Fashion 10 October 2006 No311                  矢島みゆき

写真は Tibetan tiktite

天才たちのミラノ。モードの最前線。high fashion 1999 12月

天才たちのミラノ//モードの最前線

ミラノ•モードの今

 イタリアのファッション生産にうかがえる、優れた工業生産システム素材への感受性。それを土台にして生み出される数々のモード。すなわちこの「知と情」の結合した創造は、’90年代ももすぐ終わろうとしている今、さらにその特徴を強めつつある。

 イタリアが中世から得意としてきた各種天然繊維の製造に加えて、最近のテクノロジカルな素材の開発にも力を注いでいる状況は、ミラノ•コレクションを見るにつけ、誰の目にも明らかである。今や、世界中から製造依頼を受け、モードの生産基地として機能するイタリアは、自らの伝統に忠実なだけにとどまることが許されない運命を担わされてしまっている。こうして一昔前には想像もできなかった、エラスティックなカシミアやエラスティックなシルクなどが、ごくなじみの素材となる現実が生まれている。プラスチックの応用でも同様だ。諸外国のプラスチックの応用が、直裁的でそこに意匠が見られないのに対し、イタリアにおけるプラスチックの開発は常にデザインを伴ったものである。

 美しいものへの感受性を土台に、常に新しいものを作り出そうとする姿勢。これこそがイタリアを世界の生産基地として保証する特徴なのである。若手は、若さとエネルギーを大いに活用して次々と新しい素材を考案、開発し、コレクションの発表に余念がない。さらにコンピューターや情報システムの応用によって、よそで開発された新素材についてのデータを収集することにも積極的である。巨大な資本力は駆使できないので、インドやインドネシアやアフリカなどの生産力を利用して価格を抑え、それを単なる廉価商品に収めてしまわないために、自ら色彩感覚や趣味を最大限に生かすことを考える。あるいは自ら染めたり描いたりすることで、世に二つと同じものがないといった個性の強い商品を作り上げるのだ。また長年コレクションした各国の優れたテキスタイルでフォルムをデザインすることで、世にない服を誕生させる。規模こそ小さいが、くっきりとデザイナー固有の世界が浮かび上がるのたびに、ファンはその世界に釘づけになる。数は巨大ではないが、世界各国に散在する顧客たちを合計すれば、3〜5億円ぐらいの売り上げになる。

 今、ミラノはこの種の新世代デザイナーが続々と台頭している。彼らの強みは、自分の世界へ自意識に支えられたコレクション作りをしているプライドにある。利益の追求と考察は二の次なのである。こうした基盤は、次の時代のアバンギャルドの誕生を彷彿させる。手仕事が工業生産でシステム化されれば、短期間のうちにアバンギャルドなファッションの誕生も可能になるだろう。

 それは現在ミラノで一番のアバンギャルドたるプラダとミュウミュウのあり方に重なる。1990−2000秋冬ミラノ•コレクションにおいても、この二つのメゾンは、幾種もの機能を同時に装飾の要素としても応用するという新しい服の言語を編み出した。その上にロマンティシズムやエスニックが加味されている。これだけの操作が可能なのは、描かれるべき自らの世界、あるいは目標が鮮明であるからだ。

 今、台頭しつつある若手デザイナーたちの意識のあり方は、まさにその点においてプラダやミュウ ミュウに共通している。画一的に、伝統な生産システムに乗せて、ほぼ自動的に作り出す服が商売になる時代は終わってしまったのだ。今後の鍵は、強い自意識と高度の創造力に支えられた「才能」、言い換えれば「知力」にある。あとは情報収集と選択能力が要求されよう。製造上の秘訣はそれらの能力が解決してくれるはずである。

 時代は確実に動いている。                       矢島みゆき

 

 

High Fashion 10 October  1999 No.269  

ファッションに於けるアーテイストの視点。Trendsetter 2002年5月

 

ファッションにおけるアーティストの視点 

 

情報のグローバル化

 アンチ•グローバリズムを提唱する著書で知られるナオミ•クラインに続き、英国のイリーナ•ハーツが注目されている。彼女の「ザ•サイレント•テイクオーヴァー」はすでに10カ国語に訳されベストセラーとなり、英国では政策にも影響を与えているらしい。ノーグローバル運動には健在なのだ。民族のアイディンティティと文化を守ろうとする意志の強さの現れだろう。

 こうした運動が登場する背景には、言うまでもなく情報グローバル化がある。境界領域についての研究が本格化したのは60年代のことだ。複雑にからみ合う異領域の専門情報が、各々の専門家の間だけで使用されていた時代は過去のものとなり、多分野にわたる情報を複合して応用する時代が始まったのだ。

 それから30年余、今や情報のフュージョンは、ごく当たり前のこととなった。音楽、美術、料理、映画、文学や建築においても、情報のフュージョンなしには何事も創造し得ないような状態である。

 ファッションの世界でも、無視することのできない一種の方法論になって久しい。グローバルな世界を反映するファッションは、いかに多くの情報をミックスするかがメインテーマとなりつつある。経済力にモノを言わせれば情報の収集はいくらでも可能であり、巨大なファッション•メゾンにとって、それはもはや日常的な活動でしかない。

ブランド開発におけるアーティストの役割

 重要なのは、収集した諸情報を操作把握し、造形に応用する視点。つまり、アーテイストとして表現をファッションの大量工業生産の世界に持ち込む腕前である。最近では、こうしたアーティストの視点を取り入れ特別な製品を作ろうとする例も目立つ。

 新コスメティックブランド「ステファン•マレー」の商品開発のコンセプトも当初から、この「アートの工業製品化」にあった。アーティストがコンセプトを工業製品に託すには、アーティストとして新たな価値の創造ができなくてはならない。ステファン•マレーのパッケージやショッピングバック、グラフィックデザイン、さらには店舗設計に至るまでがミラノ在住のアーティスト、セルジオ•カラトローニが担当している。

 人々の製品イメージを収集するーーというマーケティング的見地に基づき、世界的メイクアップ•アーティスト、ステファン•マレーに関わる何千枚というヴィジュアルイメージや、自然界のあらゆる視点から選ばれた様々なイメージから一つのストーリーを導き出す作業が念入りに行なわれた。 

その結果、色の魔術師と謳われるマレーのオリジナル商品ならではの色彩と品質を具体化した製品と、それとは異なるイメージを放つパッケージや容器、グラフィック、店舗のデザインが強いインパクトと独自のメッセージを生み出すに至ったのである。カラトローニによるマーケット戦略は、アーティストの果たし得る役割の可能性を示すものとも言える。

アーティスト•ブランドの台頭

 一方で大量生産の工業的プロダクトやマーケティング戦略とは全く無縁な手仕事という手法を取ってはいるが、やはりアーティストの視点から情報を自在に組み合わせ独自の表現をしている。ファッションデザイナー達の評価も高まってきている。ミラノの「サングラス」は一人のアーティスト、ヨウコウによる服と雑貨のコレクションだ。各要素を組み合わせる手法には、創り手のアーティストとしての才能が光っている。ごく少数の製品しか創っていない小さなブランド「ロウカ」。手染めや手描きを特徴とし、白地の柔らかな素材のスカートに水墨画が描かれていたり、コートの裏地に淡い色彩のナイーヴな絵が描かれていたり。同様に「アラバマ」や「中国長城」も、布切れを手縫いのステッチでつないだり、ジーンズのスカートにビーズや刺しゅうを施したり。これらのブランドは、いずれも手仕事による装飾がアーティストの表現となっている点で共通している。

 装飾によってデザインに付加価値を与えようとするコレクションが増えているが、単なる手作りや加飾といった安易さに陥らないためには、そこにアーティストとしてのヴィジョンが強く込められていなければならない。一過性のブームとしてこの手法を選ぶのは危険だ。本物のアーティストだけが製品に生命を吹き込むことができるのである。                                   矢島みゆき

Trendsetter 2002 May No.76   

スタジオ日記。2012年12月24日。

 

 

飛ぶように過ぎた1年であった。クリスマスイヴというので、銀行も半日で閉まった。近所の日本レストランもシャッターをおろしている。心なしか、車の数も少ない。それでもスタジオは平常通りに仕事をしている。いや平常通りどころか、この先、数日でも休めるようにと馬力を入れての仕事ぶりである。4年くらい前までは、悠々と仕事をしていても締め切りを遵守できた。今や、世の中全体の様々な速度が進んで、あっという間に奇跡を起こせなければならなくなっている。魔法のツエでも存在するかのように。今程、特殊技能を持つスペシャリストによるチームの力が要求される時代はない。天才に生まれついたのでなければ,無我夢中で勉強するほか自分を救う道はないのである。自分を知ること、並以上になること、其のために自分の弱さと闘うこと。他人を見ないこと。其のための孤独を恐れないこと。これらを若い所員に向けて繰り返し言っている。年を取った証拠か。                                     矢島みゆき

 

 

 

 

インスピレーションの源としてのマラケシュ。

インスピレーションの源としてのマラケシュ。

 インスピレーションはクリエイションに欠かせないものであり、その出会いほどクリエーターにとって喜ばしいものはない。ある部分は自分自身の中に源があり、ある部分は外からの刺激によって触発される場合も多い。それは個人的なレベルのものであるが、同時に普遍的な要素をももつ。中でも特定の場所や地方、町などが人に与える影響は限りなく大きい。不思議に魅了される地というものがあるが、それらの土地は時には鋭い感覚やパワーを呼び起こし、また安らぎや幸福感を訪れる人々にもたらすのである。

 今年の終わり–来年の始まりにあたり、インスピレーションの源を求める豊で刺激的な誌上の旅へご案内しよう。

光の町 マラケシュ

 町が生まれる場所というのは、たまたま偶然にそこが選ばれたのだというものではない。ラテンの人々は、町を発生させる理想的な土地のことを「ジェニウス•ローチ Genius Loci」という単語で定義している。「天才的場所」あるいは「天才が住む、あるいは天才を有する場所」という意味である。

 古代の人々にとって町を生む場所というのは、何らかの方法によって特別な条件を充たしており、特別な魅力や特徴を人間に訴えてきたところだと考えらえていた。やがて、町の中には建物が建てられていくわけだが、町はその始まりの時点から、その町を更に特徴づける建物の在り様や配置についてまで、ほぼ方向づけられているのである。

 マラケシュは、その他全ての古いの都と同様に、その地理条件は実に特別なものである。アルト•アトラスと呼ばれる山脈の麓に広がる、半砂漠の乾いた大平原に位置するこの町は、モロッコの北部と南部をつなぐ役目をしている。マラケシュで、北と南の道は合流するのである。

 マラケシュの山の向こうには、砂漠が広がっている。キャラバン(隊商)をガオに、ティンブクトゥに、そしてアガデスに運ぶ道である。サハラ砂漠の何千kmと果てしなく続く広大な風景が、そこにはある。

 一方、北方はアトランティック(大西洋)に向かって、肥沃な平野に連なっている。気候ははるかに緩暖で、農業の収穫を得易い土地柄である。

 マラケシュの町の特徴は、ほとんどこの「境界にある」という現実がもたらしたものである。何世紀にも及んで、人々はこのマラケシュで出会いを続け、情報を交換し合ってきた。ベルベル人、フェニキア人、ローマ人、ポルトガル人、アラブ人、ブラック•アフリカの人々、そしてフランス人など、幾多の民族が加わって「異文化が出会う町」として文化の構造わ作り上げてきた。

 真夏で平均46度C、冬期でも24度C前後、時として30度Cに近いといったアフリカでは比較的恵まれた気候条件と前述のような風景の特殊さのために、それだけでも充分に魅力的なこの町の更なる豊かさのひとつは、まさにその地にある。その世界的な状況にある。この町の魅力は、時が移ろう中で、少しづつ転籍していく各種文化の()にある。この町で文化は各々、遺産として情報や知識をもたらし、それらはお互い溶け合って一体となり、驚く程の内容のものになるのである。 

 マラケシュの建設は1062年のこと。アルモラヴィデ•アブ•バグル将軍の指揮による。アブ•バグルの従弟でユスフ•イヴン•タシュフィンの息子は「ケッタラ」と呼ばれる灌漑用水を地下に設ける技術システムを造り上げた。このシステムがオアシスに生命を蘇らせ、砂漠地帯を今日見るごとく奇跡のような庭園に変容させたのである。このシステムはやがてスペインに輸出され、アンダルシア地方にもうひとつのエデンの園を作り上げたのであった。

 マラケシュの町に降り立つと、即座にこうした魔法の力に取り囲まれるのを感じる。何も見なくとも、誰とも話さずとも、降り立ったその瞬間から、特別なものを感じるのである。適度に乾いた暖かな空気。熱烈に過ぎるというわけではない太陽の放射。すばらしく透明な光の具合。その光が見せる透明な色の数々。これらに浸ることが、心に及ぼす最高に丁寧な気分。マラケシュに降り立つと同時に、誰の表情も大きく変化する。

 15mはあろうかと思われる、すっくと真っすぐに伸びたパルメラヤシの樹々の優雅で貴族的な立ち姿。そういう樹々を抱き込む透明な空の偉大な抱擁力。ポルポラ色(緋色)の長い長い城壁の、造り手の気分までも伝える表面のテクスチュアの不揃いなフォルム。象徴的なモスクの威容。季節によって白い花をつけたり、黄色い果実をつけたり、変化する街路樹のミカンの木々。そして、その香り。 

 こうした風景は、マラケシュでは夕方遅くから夜間にかけて、特にその不思議な魅力を倍加させる。妖艶なまでのなまめかしい風景というのを、私は他の町ではみたことがない。あくまで透明な空気は、夜の空を何とも例えようのない、一種の青色に仕立てる。金属的な光は一筋たりとも含まれていない。

 一枚の青の向こうに更に青があり、その更に向こうには一枚の青があり、と恒久の宇宙の果てにまで、青が青の上に重ねられていくという風である。その青いフィルターから流れる、それはそれはまろやかな光によって、ポロボラ色の城壁は表面に細かな陰影を作り、パルメラヤシは切り絵のようなシルエットに変わる。長く高い城壁沿いを、家路を急ぐジュラバ(彼らの民族衣装)姿の男性が音もなく移動して行く。まるでマリオネットの舞台のように。

 私は、まるで映画のセットの中にまぎれ込んだような、シュールレアリスティック(非現実的)な自分の存在を距離を持って眺めている。マラケシュの遅い午後から夜を包む光は、そう、あたかも克明に計算され尽くした装置のように完璧なのである。この光にくるまれることの贅沢な気分は、一体、どのように表現すればよいのだろうか。身体の中の官能を揺すぶられる光の質なのである。

 昼の光の魅力は、逆に町の中に見出し得る。ベン•ユセフのコーラン学校の静寂に充ちた中庭。その壁という壁、床という床を埋め尽くすイスラム•タイルによる装飾。長い年月によって風化さえたこれらのタイル表面は、光のあたる方向によって見せる色を変える。一枚のタイルの中で紫が誇張されて見えるかと思えば、赤が姿を現したりする。時間が経過して、日射をそれほど多く受けない位置に潜んでしまうと、タイルはあたかも、それまでの色の響宴がすっかりウソであったかのように、表面は平板となり、輝くことを止めてしまう。

 一枚のタイルを眺め続けるだけでも少なくとも二時間は過ごせる。予測もしない色の変化に翻弄されて過ごすことの興奮。メディナ(旧市街)の中に細かくくねった小径の、褐色の地面の中に埋め込まれた焼きもののかけらなども、思わぬイリデッセンス(玉虫色)を放って眼を引きつけられる。赤っぽい褐色の土壁にはめ込まれた扉。その奥には広い中庭を持つイスラム式住居が広がっているであろう扉が、金色にさん然と光っている。そのあでやかさについかけ寄ってみれば、それもまた、メディナの天井をおおうひさしを通って来る光のいたずらで、実は渋い銀色の一枚の扉であったりする。

 日中のメディナに射し込む光を調整する天井のひさしは、アシの茎やヤシの葉柄を並べたもの。そのすき間から射す光は、メディナの閉じられた埃っぽい空気を照らして、薄暗い通りの所々にぼんやりと綿菓子のような白い光の固まりを創り出す。その光はまた、そこを往く人々の顔に縦や斜めの縞を刻みつける。日中のメディナの中の光は、そこを往く人の服装や持ち物を照らしはしない。メディナの中の空気を照らし出すのである。その空気は、そこを往く人、あるいはそこに佇む人物の内側のエネルギーを透かしてみせるのである。ここでは、誰も自らを偽ることができなくなってしまう。衣や装身具は偽るためには役立たないのである。

 メディナの中では、春なら、バラの花びらがそこかしこに山と積まれて売られる。夏なら、白いオレンジの花びらが山と積まれる。各家庭では、それらの花びら使って香水を作る。その深い芳香と微妙な色彩が私の中に掘り起こす、ある強い感覚。

 マラケシュの魅力は、こうした光にある。光が編み出す色にある。香りにある。人間の五感を鋭く刺激し続けるマラケシュの空気そのもの、そして、その中に詰まった濃厚なエッセンス。それがクリエーター達を刺激しないはずがない。

 資生堂のセルジュ•リュタンス、モードのイヴ•サンローランやロメオ•ジッリ、カメラマンのナディル、建築家のビル•ウィリスなども含めて、マラケシュは欧米の文化人が好んで住まいを持ちたがる町のひとつになっている。

                                         矢島みゆき

スタジオ日記。2012年12月22日。

血が騒ぐ、という話。

 

78年にミラノに着いた頃、時折,VIA LARGA  その他の通りで、若者たちが火炎瓶を投げたり、車をひっくり返して火をつけたり、している姿に出会う事があった。そういう光景を見ると、特別な気分が満ちてくる。心がはやり、急速に血管の中の血がいきり立つのである。それは、特別な感情の在り方だ。デモ隊の行進を見ても同様なざわめきに襲われる。機動隊を見ても同じである。それが何に由来し、何を意味しているのかがこれまで分からなかったが、最近思い及ぶことがあった。つまり、大学紛争の体験が凝縮されて体内に、あるいは脳の中に詰まっていて、それらに類似した環境に触れると自動的に其のときの体験の記憶が引き出されてくるのであるらしい。60年代末の大学紛争を、私は始めは学生として、そのあとに教員の側としてと2重に体験している。自己批判、とか、反日和見主義とか、曖昧な在り方を徹底的に批判されて過ごした学生時代、警官隊にホースで全身に水をかけられてもひるまず前進する確固とした意思をとわれた時代、明確な政治思想を表明する事を要求された時代が青春であった我々の世代。少なくとも信念を持って事にあたるのを当たり前として育った我々の世代。そこを刺激する状況に出会うと、血が騒ぐのである事がわかってきた。近年では、デモ隊に出会う事もめっきり少なくなっている。火炎瓶と言う単語すら忘れそうな時代背景にある。従って、早々、血が騒ぐこともない。然し乍ら、新聞紙上でシリアやエジプトでのテロの様子の報道を読むときに、写真によってはほぼ同様な感覚を呼び覚まされる事がまれにある。イタリアに生きていると、一つの姿勢を強く持ち続けることにはたいした意味が無いような気分に見舞われる。それよりも、日々刻々と変わって行く社会状況や人の心理とともに、自らをも柔軟に対応させて行く力の方が要求される。そういう日常の連続のなかで、血が騒ぐという心理は深層意識の底の方に眠らされてしまっているが、時として頭をもたげてくるのである。熱く闘った青春を懐かしく想う、というのは、他ならぬ日和見主義に転向してしまった情けない我が身の現れに他ならない。恥ずべき事である。レッドフォードの映画は、私の中に大学紛争世代の価値観への連帯感を復活させるきっかけを呼んでくれた。昨年亡くなってしまった友人リカルドレニャー二の不在を、今日は強く自覚せざるを得ないことであった。我々の世代には極当たり前に存在していた、同志、仲間、と言う単語が今の世においては、最早通用し得ないことをも。                               矢島みゆき    写真は     ZINCITE.

スタジオ日記。2012年12月12日。

 

18年後には中国やインドネシア、インドなどのアジア勢が世の中の中枢を担う、という未来予測を読んだ。その頃には、日本もアメリカもヨーロッパもしぼんで衰えてしまっているだろう、と書かれている。それは、謂わば、歴史始まって以来の、膨大な数の中産階級が世界の大半を占めるという時代でもあるという。つまりは誰かにとって操りやすい時代の到来であり、平たいコムニケーションで十分な時代の到来である。一般的に文化の深さは必要とされない、いや逆に邪魔になる。世の中の大勢の間でコムニケーションがスムーズに行くために必要なものは、深い教養や文化ではなくて、共感し合える日常の感情や一律の基準にのっとった物の価値などとなるのだろう。となると自分をどこに所属させるかを明確にする事が重要になってくる。そうすることで、あらゆる問いに対しての自分の対応と選択が自動的に明確にされるからだ。特に仕事上の顧客との関係、顧客の選択に対する態度を明らかにすべきである。ーーーー続く。                  矢島みゆき

 

PS 写真はモルダヴァイト。

イタリア・モード界の力 — クールなミラノを支えるラテンの血。HF 2001.October

HF 2001.October

 

イタリア・モード界の力クールなミラノを支えるラテンの血。

                      

ミラノは、独自のモードシステムを作り上げることで、世界のミラノとして、君臨する事に成功した。

参入してくる外国人の持つ力を生かして、イメージはクールに、しかし、イタリアらしさは、損なわない。その秘密は、イタリアが常に、新たに創造することを重要と考える人から成る国であり、かつ生産を大事にして、いまだに手工芸のよき伝統が残っていること、コミュニケーションの手段を各種有し各々の手段が、創造に支えられたものであること。IT時代にあっても、やはり時代を動かして行くのは人間なのである。

イタリアは美しい国である。それぞれの美しさがあるが、国中の隅々にまで、配慮と計算の行き届いた街がちりばめられた国というのは、世界にもそう多くは存在しないだろう。国中に、小さな田舎町も含めてそれこそイタリア中に西洋の歴史の流れが渦巻いている。古代ギリシアが、アラブが、エトルスクが、古代ローマが、今なお厳然とあって、人との現実の暮らしの中に息づいている。中世があり、ルネサンスがある。手を伸ばせば触れることのできる歴史の遺産。これらが、過去のものとして葬られているわけでもなく、また、美術館という特別の箱の中にしまい込まれたものでもなく、現代のイタリアの日常の風景の中にたたずんで、人々の暮らしの感覚を培う基盤となっている。過去についての意識なしに、つまり根の部分への意識なしに、未来は存在しない。植物が根の部分なしに花を咲かせないのと、それは同じことだ。過去の文化のあかしとともに、自分が存在できることの幸せを与えられた国、それがイタリアなのである。

 こうした環境が人々にもたらすもの、それは美しいものを美しいと感ずる力。時代を経て生き残った、ある種のプロポーションに対する感受性。時を経て次第に変化していく素材の微妙な変化への感受性。透明な色彩や不透明な色彩を敏感に感じ取る感覚。これらは、イタリア人の血の中に、すっかり情報化されて住みこんでいるかのようだ。美意識にまつわる創造は、したがって、最もイタリア的な性向だろう。ファッション産業は、その恩恵の下にある最たる分野である。

スティリストもエディターも、グラフィックデザイナーもカメラマンも、建築家や工業デザイナーも、自らを“アーティスト”であると規定したがる。それは心が自由であること、創り出す者の立場にあるということ、表現の手段を持っていること、などへの大きな自負のあらわれだろう。彼らは総じて、理屈でなく美しいものに即座に反応し、美術に造詣が深く、ビジュアル感覚に優れている。さらにラテン系民族の常で、形式を嫌い、個性的表現を尊び、自らを表現する能力に長け、それゆえにコミュニケーションの力に優れていて、自尊心も強い。こうした専門家たちによって成立しているファッションの分野は、最もイタリア的な産業の一つといえる。

 この国においては、服は、いわば身体の建築としてとらえられてきた。人間の皮膚と接触を持ちつつダイナミックに伸縮する建築として。したがって服も設計され、デザインされフォルムを与えられる。ミケランジェロの“設計”になるヴァチカンの兵服を見るがいい。やがて、服は建築と同じように非構築化への道をたどっていく。

 ‘80年代から、時代は大きく変わった。物事を深める時代から眺める時代へ。消費者に欲求を持ち続けさせることで彼らの消費行動を引き起こす。そういう設定下の時代にある。しかもそうした設定が効率を持つ範囲を拡大すべく、世の中は一体となって努力してきた。今や、服は、一つの伝統のみからは生まれない。相対立する言語や複数の文化の複合から生まれてくる。それこそはまさにイタリアの伝統的体質なのである。そこに現在のイタリア・モード産業の成功の秘密がある。異種の文化の混合が歴史の始まり以来、延々と繰り返してきたイタリア。それを既に血の中に取り込んできたイタリア人。彼らの体質から生まれてくる創造の一つとしてのファッション。あくまで人間に重きをおいて、人間が自らつくり出すものに心からの賞賛を惜しまないといった人文主義的な伝統下にある社会ならではの創造のシステム。切り取るとか、専門化させるとか能率を優先させるといった産業の現代化とは相いれないメンタリティに由来するものなのだろう。それよりは、つまり切り取るよりは、仕事を分割していくよりは、統合的な文化の中から生み出されてくるものを拾い上げ、プロジェクトの経過の中でより効果の高い方法をその都度リサーチして、それらの総体としてのシステムを作り上げる。その部分には投資を惜しまないという傾向。つまりは、創り出すことへの強い信仰に裏付けられた社会にあるということなのだ。創ることは、販売する立場の側にも共通して存在すれば、職人にも、また経営戦略を立てる立場の側にも共通して存在する。今、イタリアにおいて、ファッションメーカーによるアート支援でチャリティがこれほど多いのも、ブランドの売買がこれほど頻繁なのも、いずれもが新しい経営戦略の創造を目指すがゆえの結果である。ヨットを始めとするスポーツを広報戦略とするのも同様である。

 万人にとっての共通項が多ければ多いほど、多くの職種が集まって成就する仕事のプロセスが生み出す誤差は少なくなる。となれば、そういう仕事のプロセスをシステム化して共有しても、切り取られてしまう部分は少ないということ。イタリアのファッション産業のシステムの成功は、まさにこうしたイタリア人としてのアイデンティティの共有化に支えられて成立するものなのだ、ということがわかるだろう。           矢島みゆき

Kean & Veronica Etro エトロ兄弟の肖像。 HF 2001.October

HF 2001.October

 

Kean & Veronica Etro

エトロ兄弟の肖像。

                      

アンティークのコレクターという家庭に育ち、旅や蔵書を通じで生きた教育を身につけエトロ家の4人兄弟。デザインに携わるキーンとヴェロニカの話を聞くイタリアの家族企業のよき伝統、グローバリゼーションとは別のエトロの行き方が見えてくる。

 

 家族が参加して営まれる企業のあり方は、つい3年前までは、イタリアではごく当たり前の業態だった。モードのメゾンであれば、例えば、父親が経営を、母親がデザインを、大学を出たての若い息子は営業を、楚々とした娘は広報を、といったふうに仕事を分けながら。それが、急速なグローバリゼーションと、激しい競争に打ち勝つための新しい経営戦略として、他企業を買収して拡大を図り、さらに株式に上場して他資本を吸収するという動きによって、瞬く間に家族経営の企業は少数派になってしまった。

エトロ社は、その少数派に属するメゾンの代表である。テキスタイルの製造を始めたのは現在の社長であるジンモ・エトロ氏の父親の代から、服飾雑貨を加えたのはジンモ氏の代から、そして衣装を加えたのは主にその子息の代から。こうして、現在、エトロ社は、テキスタイルと服飾雑貨と婦人と紳士のコレクションの三つの部門を抱えている。従業員は280人。売上高は3200億リラ(約180億円)。この2年間で1400億リラ(約80億円)の増収を見せている。勢いに乗った同社は、1年に1店舗の割合で、売り上げ場数の拡大も図り始めた。

子供の数は4人。長男のヤコポはテキスタイルとホームアクセサリーの方を管理していて、最近はガラス器などもデザインしている。二男のキーンは、エトロ社のクリエイティブディレクターであり、メンズコレクションも手がける。三男のイッポリトは学生時代、アメリカで食品のビジネスを成功させたが、今はエトロ社の財務を担当している。いちばん若いヴェロニカはレディス部門のチーフデザイナーにおさまった。全体の管理と会社の運営にあたっているのが、彼らの父親のジンモ氏。元骨董商という母親は、外部に身を置いてさめた目で彼らの行動や判断を観察しては的確な批評をする役だ。

エトロ家の文化的背景は、コレクションを見れば一目瞭然だ。時代を往来し、異なる文化圏を駆け巡り、歴史をまたにかけ、美しいものへの知識と感受性に浸りきったところからしか出てこないコレクションの内容を見れば。

「僕らが育つ過程で、家の中で、モードのことが話題になることはほとんどなかったように思う。オークションのカタログがそれこそ山のように積まれたテーブルの上で、絵画とか彫刻とかについて両親はいつも、こと細かに説明してくれた。僕ら男3人が育ち盛りのころ、母は時々その騒々しさに耐えられなかったようだった。それで、父に連れられて土曜日などに会社に行っては山と積まれた布の中に隠れたり、布の山の裏側にひそんだりというか、かくれんぼをよくしたね。古い布の中には、時たま、巨大なはえが育つんだ。それを捕まえるのが楽しみだったなあ。父に連れられて旅もよくしたよ。12歳で寄宿舎に入るまでの間だったけれど。

『誰か一緒に来るか』と父が言うと、僕らは勇んで手をあげたっけ。’76年に父とイスラエルに行った時のこともよく覚えているよ。キブツを訪れたり、現代美術館のオープニングに参加したり。砂漠で初めて育ったという魚を見たりね。そこでゴテックスというユダヤ系アメリカ人の会社を訪ねたんだ。その時代のお土産が何と、アラブのファーティマの手だったんだ。ユダヤの象徴じゃなくて。そのことが僕に与えた衝撃は大きかった。僕が後にアラブ史を学んだきっかけは、この体験にあると思っている」キーン氏がこのように語れば、ヴェロニカも「私は両親と出かけたインドとパキスタンが印象に残っているわ。仕事と遊びを兼ねた旅行よ。戦渦にありながら、みんながきれいな刺繍を黙々と続けていたカシミ–ルのことも」と続ける。

「旅は、でも資料室でもできるのよ」

エトロの資料室はそれこそ宝物の詰まった宝物殿である。1700年以降の布の資料はおおかたそろっている。全部で何万冊の書物があるだろか。ヴェロニカはこの資料室の中からコレクションのアイデアを引き出し、キーンは焼き物のパターンのアイディアのヒントを得る。

「インドやグァテマラやインドネシアの布、13世紀から17世紀までの枢機卿の服もかなりの数がそろっているよ。いつか展覧会もするつもりだし、その後でどこかに寄贈したいとも考えているんだ」

 なんという豊かさ。エトロのアイデンティティはこの部屋に集約されていると言ってもいい。

「コレクションを通じて、僕らは語りたいものを語るわけだけど、その語り方がもし十年一日のように同じことの繰り返しだったら退屈じゃないか」とキーン氏が言う。ヴェロニカはそれを受けて、「3ヶ月のコレクション。あれもロシア構成主義からバウハウス、それからロシアのカウボーイ風に展開されていったとキーンに言われたけれど、自然に一つの方向にまとまっていくのよ。一つの出発点から始まって、それがさらに別の話題に連なってロシア構成主義にたどり着いた。とっても自然な流れなのよ」

「最近、企業は巨大化の傾向にあるけれど、僕らは僕らの規模に満足しているんだ。こういう僕らエトロのアイデンティティを発揮して行くことに。それもある層に売るんじゃなくて一人一人の個人のアイデンティティに対して売って行くことにね。各土地ごとのアイデンティティを尊重したいから、エトロの店は各市ごとに異なっている。同じエトロの店でも、日本とドイツのものは違っているよ。この考えで十分に商っていけることは、この2年間の増収が証している。僕らは僕らのアイデンティティを薄めないようにと、そこに集中している。僕らのこの考えを伝えようと思ってエトロの2001春夏の広告写真は、家族のポートレートにしたんだ。店を治めているのも店内の商品を作っているのも、商品について語るのもエトロの家族だ、という品質保証を意味しているのさ。僕らはクリエーティブだからすべて僕らの手でできるんだってこと伝えているんだ。もちろん時には間違いもするよ。その時の傾向にあわせてデザインしたためにエトロのアイデンティティが薄まって失敗したこともあった。もうそう言う失敗はしないと思う」

キーンとヴェロニカは、こうして本誌ハイファッション用のポートレートに収まった。     矢島みゆき

ココロテク2

2010224日水曜日

21 FEB 2010

 

今日がどういう日であったか。

日が沈んで当たり一面が群青色につつまれ、そこかしこに四角い明かりがともり始める頃になると、ふとその日を振り返ることがあります。

そ の昔は毎日そういう時間が訪れ、紙に向かって延々と記すのを常としておりました。近頃では毎日が飛ぶように早く過ぎて行くのに、やるべき事があまりに多 く、しかもあらゆる意味での締め切りが何倍にも加速しているために、自分を振り返ったり、その日を振り返ったりすることを日常の行事とし続ける事がむずか しくなっております。しかし、この作業はできれば毎日習慣として続ける事が望まれるものだと考えます。自分のその日の行動の表向きのあるいは裏の意味や、 強い感情を引き起こした源の事柄あるいは関係、などについて自分のなかを毎日振り返り、そして洗い流すというのは、とても重要な行為です。自分と対話をす るという事が大切なのです。自分を第三者として捉える力を養うのに役立ちます。ただ、こうした瞑想の作業にはフィルターとなる倫理感が必要となります。自 分自身…



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