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2018 春夏ミラノコレクション、第2弾。

この9月に開催されたミラノコレクション
は、展示会の数が102、ショーの数は61、う
ち10ブランドは男女の合同コレクションの形
態で発表された。
これだけの数を追いかけるために、ひたすら
時間と戦う5日間であった。あと1日あれば、
という声も少なくなかった。

今回のミラノでは、アシンメトリーな分割、
スポーツシック、フリルレース、デニム、ナ
イロン、PVC、軽さ、透明感、重ね、幾何柄、
藤色、ピンク、光、ギャザースカート、言葉
によるメッセージなどが目立つ。ロマンチッ
クでフェミニンでありつつ、スポーツウェア
やサブカルチュアの、機能的で飾らない快適
さをも満たす、現実的な女性像の提案が目立
つ。服の上に漫画や絵画、あるいは写真、言
葉も載せて、今や、服は意識の表現の手段と
して定着してきてもいる。

ピクセル風の幾何柄、PVC、インテリア用
の布帛、アシンメトリーな配色、手刷りの
版画風合いのプリント、ゴムによるウェス
ト部分のシャーリング、重ね着、パッチワー
ク、レース使い、フリル、フリンジ、透明
感、金糸銀糸による刺繍、バッグを服に一
体化したミニマルなデザインのドレスなど。
デキリコ、ポップアート、ハインツスタン
グル等からのヒント、繊細な色のニュアン
ス、タトウ風の柄。
これらの組み合わせによって、アートの表
現にまとめている。
言葉を服の上に描くことで、イデオロギー
を伝言として表している
例もある。
概して、これまでのミラノの、上質な素材
を用いて、完璧な仕立ての機能的なデザイ
ンの服とは異なって、グランジの傾向、ス
トリートの傾向、より自由な表現を望む傾
向が、アートを取り込んだモードとして訴
えてくる。あるいは、ヴェトマン、スプリー
ムのような、野暮ったさを特徴とする服や
スケーターの服装など、サブカルチュアの
価値観が漂ってくる。

ミラノの既製服のコレクションは、かれこ
れ40年に及ぶ歴史を積み重ね、年商は870億
ユーロに達している。中国と韓国を筆頭に輸
出が6%の伸びを示しているというのも、朗
報である。
この10年の間にデジタルの発達と普及とに
よって情報の流れや情報の収集能力が大きく
変化し、そのために人々の暮らしの価値観や
生き方も際限なく変わってきている。
1980年までに生まれた世代とミレニアム世代
とではミラノコレクションの理解も異なれば、
市場の要求も二分される。
前者は高品質、高級素材、手仕事、ラグジュ
アリを要求し、後者はエコロジカル、ソーシャ
ル、自由なスタイルに敏感である。ラグジュ
アリを追求する80年代以来の重鎮が健在であ
る一方、ヴィエン、アンナキキ、MSGM、no.21,
アンベッセル、プリージ、アルビーニ、コラ
ンジェロ、ヴァノッテイ、ミアオランなど急
速に数を増やしている若いデザイナー達は、
より自由でカジュアルなストリートスタイルを、
今回はロマンチックな気分でまとめていた。

そのような状況を見越して、ヴェルサーチェ
はジャンニヴェルサーチェが亡くなって20
年の追悼として、ジャンニの時代のスーパー
モデル達を使って当時のコレクションを再現
して見せた。ドルチェエガッバーナも80年
代当時の彼らの情熱的な雰囲気を感じさせ、
プラーダでは、80年代に同ブランド再生の
基礎を作り上げたナイロンのバッグやコート
も登場させていた。フェッラガモもブランド
の  周年を記念して大掛かりなショーを開
催。ミッソーニでも40周年を讃える夕食会
が開かれた。80年代は、若い世代にとって
は過去ではなく、未来に等しい。

今回も双璧はプラダとグッチ。
プラダは、今回も意識の高い、決して流され
ない反体制の女性、アンアーグラウンドでア
ンドロジーナの、強い女性を提案して、強烈
な印象を残した。
9人の女性の漫画家の作品の組み合わせから
なるプリントのコート。各々のモデルの服装
には、異質の要素複数がぶつかり合うところ
に生まれる反発のエネルギーの総体が火花を
照らす。これは、伝統的な西洋の美意識に順
応するのではなく、逆にそれに反抗するもの
である。よりパンクに近い。
グッチは、膨大な具体的情報の破片を組み合
わせた手法でコレクションを構成して、今回
もマニエリステイックなコレクションを発表
した。ヒップスターや漫画の主人公の気分を
味あわせてくれるグッチは、いわばコスプレ
世代にとっては、この上なく、変身願望をそ
そるコレクションなのに違いない。現実的に
様々な要素を混ぜているので、一見グローバ
ルで多様性に満ちて映るが、現実的にはそこ
にはオリジナリテイはない。前回、NYブルッ
クリンの服の仕立て人、ダッペルダンの80
年代の服のデザインをグッチが無断で使用し
たということでクレームがつけられたことも
グッチの現実を語るものである。

グッチは10月 日、今後一切、毛皮は使用
しないというという声明を発表した。
アルマーニ、マッカートニーなどに続く決断
である。
今回のミラノコレクション最終日の夜、第
1回目のグリーンカーペットファッション賞
の授賞式があった。暮らしの環境、地球の環
境保全を考えながら、ファッションビジネス
を展開していこうとする決意を、ミラノファッ
ション協会がエコエイジとともに、ICE、経
済産業省の支援を受けて表明したものである。
廃材から新素材を作る企業は、すでに存在し
ている。100%植物性のスェード風素材を作
るGRADO ZERO,オレンジの皮から作るオレ
ンジファイバーのメーカーADRIANA,使用済
みの漁師の網から作るキルテイングのメーカー
ECOALF,革風の素材を作るVEGEAなどがそ
れである。
会場となったスカラ座は、全館が各界から
の着飾った招待客で埋め尽くされ、スカラ座
前の広場には合計2000本の木々が植え込まれ、
周辺の幅広い区域を警官の警護付きで立ち入
り禁止にして、ものものしい状況でのイヴェ
ントであった。それだけ、入れ込み方の大き
い決意であるということに他ならない。
これまでのミラノコレクションが引きずっ
てきたのは、伝統的な古典の美であった。
バランスや配色や黄金分割などにおいて、明
確なかつての美意識が基準となって作られて
いたミラノの服は、それが故に世の人々に賞
賛されてきたのだと思う。
ミロのビーナスやレオナルドのモンナリーザ、
カノーヴァの彫刻、アドリアーノの館、ジオ
ポンテイのモンテカテイーニの建築物等々。
それらに伺がわれる見事な配分が作り出す美。
それが基本であった。
アルマーニ、エトロ、ゼニア、トッヅ、フェン
デイなどが発表するコレクションは、安心し
てみていることができるのは、われわれが慣
れ親しんでいる過去の美意識の延長線上にあ
るからだ。
ほんの少しでも、その基本からずれると、わ
れわれの目は意外な風に反応する。
さらに世界にとってのミラノコレクションの
魅力は、素材や縫製の巧みさにある。毛皮を
除去し、現代感覚の人工素材を外し、新たな
リサーチによって実現されるであろう廃材や
廃棄物を土台にした持続可能な新素材を採用
して作られていくファッションは、これまで
の美意識やこれまでに存在した美の価値観と
は大きく異なったものに展開されていくこと
であろう。
使用素材が変われば、出来上がる服のフォル
ムも変形する。
また、既成の経済的な価値観からなる服の価
値ではなく、エコロジカルで持続可能である
か否か、環境への影響には問題があるかない
かといった、目に見えない意識の部分が問わ
れる、その意識についての価値観が服の価値
観に連なっていくという状況が作られていく
ことであろう。
ミラノの服のこれまでの伝統を大きく超える
別の価値観に支えられるものとなるはずであ
る。
それがどのようなフォルムや素材感となっ
て提案されていくのかは、まだ予測ができな
い。

いうまでもなく、消費市場なくしては存命し
得ないファッションの世界ではある。それだ
けに、300万ユーロの大枚をはたいた今回の
決意の発表は、イタリアファッション協会に
とっては、意味深いものなのであると言うこ
とであろう。
一年に4−6回のコレクションの発表とそれ
に続く製造という消費の現実に生きるファッ
ションビジネス。
このビジネスが抱えるのは、単に使用素材が
エコロジカルであるか否か、動物愛護の精神
に則っているか否か、石油の消費量が大きす
ぎないか、といった問題のみではない。製造
に関わる第3世界の労働者の人権や消費・貨
幣経済への認識の問題なども解決されていか
ねばならない。そこまでを考慮して成り立つ、
新たなファッションシステムの構築への決意
であって欲しいものである。

ミラノコレクション2018春夏

この9月に開催されたミラノコレクション は、展示会の数が102、ショーの数は61、う ち10ブランドは男女の合同コレクションの形
態で発表された。
これだけの数を追いかけるために、ひたすら 時間と戦う5日間であった。あと1日あれば、 という声も少なくなかった。 今回のハイライトは、イタリアファッショ ン協会の第一回のグリーンカーペットファッ ション賞。持続可能な素材なども含めて、地 球環境の保全を狙いとする賞の誕生である。 この決意が生み出す今後の成果を見守りたい。 その歴史が40年に及ぶミラノの既製服のビ ジネスは、今日、870億ユーロに達している。 対中国と韓国への輸出も6%の伸びを示して
順調である。
今回のミラノでは、非対称の分割、スポー ツシック、カジュアル、軽さ、透明感、光、 重ね、フェミニン、ロマンテイシズム、フリ ル、レース、デニム、ナイロン、PVC、など が目立つ。繊細な色のニュアンス、漫画や、 あるいは写真あるいは言葉を用いてアートと しての表現や意識の伝達の手段とする服の例 も珍しくなくなって久しい。 80年代がちらつく。
1980年までに生まれた世代とミレニアム世代 とではミラノコレクションの理解も異なれば、
市場の要求も別である。 前者は高品質、高級素材、優れた手仕事、ラ グジュアリを要求し、後者はエコロジカル、 ソーシャル、自由なスタイルに敏感である。 ミラノでは、完璧な高級感を追求する80年代 以来の重鎮が健在であ る一方、ヴィエン、アンナキキ、MSGM、no.21, アンベッセル、プリージ、アルビーニ、コラ ンジェロ、ヴァノッテイ、ミアオラン、デヴィ ンチェンツオなど急速に数を増やしている若 いデザイナー達は、前者のグループに比べる とより自由でカジュアルなストリートスタイ ルを、今回はロマンチックでフェミニンな気 分にまとめている。

1980年代はポストモダンの時代である。 歴史の中の幾つもの異なる時代の、異なる様 式や形式や美意識などを要素に分解して、組 み合わせ直す。 このポストモデルニズムは、いわば、現在の 情報化社会の創造の方式への、先駆けたる存 在である。 今我々が生きているこの世の中は、まさに各 種情報の幾多の破片のつなぎあわせが作り出 す偶然の産物をクリエーションと呼びさえす
る。
ここには、概念の抽象化は存在しない。 現在のグッチの手法はまさに、この80年代、 ポストモダンのそれに他ならない。
様々な要素を混ぜているために、グローバル で多様性に満ちているように映る。今回も膨 大な具体的情報の破片を組み合わせると言う いつもの手法で、マニエリステイックなコレ クションを発表した。ヒップスターや漫画の 主人公を身近に感じさせてくれるこのブラン ドは、いわばコスプレセルフィー世代にとっ ては、この上なく、変身願望をそそられるコ レクションなのに違いない。 前回、NYはブルックリンの服の仕立て人、 ダッペルダンが80年代の服のデザインをグッ チが無断で使用したということでクレームが つけられたという出来事もグッチの現在の手 法の何たるかを語るものである。 一方、プラダは、同様に多種の情報を取りい れつつ、今回も反体制の女性、アンアーグラ ウンドでアンドロジーナの、強い女性を提案 して、強烈な印象を残した。 9人の女性の漫画家の作品の組み合わせから なるプリントのコートにみられるように、各々 のモデルの服装には、異質の要素複数がぶつ かり合うところに生まれる反発のエネルギー の総体が火花を照らす。これは、伝統的な西 洋の美意識に順応するのではなく、逆にそれ に反抗するものである。よりパンクの意識に
近い。
そのような状況を見越して、ヴェルサーチェ はジャンニヴェルサーチェが亡くなって20
年の追悼として、ジャンニの時代のスーパー モデル達を使って当時のコレクションを再現 して見せた。ドルチェエガッバーナも80年 代当時の彼らの情熱的な雰囲気を感じさせ、 プラーダでは、80年代に同ブランド再生の 基礎を作り上げたナイロンのバッグやコート も登場させていた。フェッラガモもブランド の 周年を記念して大掛かりなショーを開 催。ミッソーニでも40周年を讃える夕食会 が開かれた。80年代は、若い世代にとって は過去ではなく、未来に等しい。 了

新年に及んで。

 

知人を亡くした。病気でいたことを知らされなかったのでとても驚いた。同時に、突然に体の内側から何かを力づくでもぎ取られたかの深い一種の暴力をも覚えたことも確かであった。同じ思いは、今から4ヶ月前に、別の友人からも抱かされていた。遡って、かれこれ1年前にも、私より30歳くらい若かった知人の死が私を一時的なパニックに陥れたことを思い出している。人の命には限りがあると知ってはいても、現実にそれを知らされるとその都度、慌てざるを得ない。理不尽なことが起きたような気分に陥ってしまう。この世に在ることが私にとって当たり前になってしまっている存在がふといなくると、裏切られたような気持ちになるのはなぜだろう。私の不遜さに由来するのだろうか。一期一会。幾度となくこの言葉を自ら使いつつ、未だに後悔後に絶たずの日常を繰り返す私の愚かさ。何歳になってもちっとも学びきることがない。アメリカの政権をトランプが握ったことによって世界の動向は必ず変化することだろう。これまで大手を振ってはびこっていた独占的権力体制は自ずと壊れ、新権力に取って代わることだろう、しかしながらそのトランプとて、最終的にはその上に君臨するより中枢の最高権力の前には逆らえないことも多くあることだろう。つまりは、我々には所詮関わりのないことなのだ。中枢権力の奴隷たる我々の未来は、決して明るくない。暮らしはますます厳しくなっていくことだろう。職を失う人の数も大きくなっていくことだろう。少ない余剰所得を巨大な人数で割っていかねばならない。病に倒れる人、ストレスに倒れる人の数も増えていくことだろう。そういう時代にあって、何を以って生きることを肯定していくことができるのか。それは、ひとえに自分を生きることだと思う。自分がどのような特性を持ち、どのような感性を持ち、どのような人々と一緒にいることを望むのか。どのような夢を実現させたいと願っているのか。どのような環境にあるときに快適さを覚えるのか。自分についてを把握したあとでそのような自分の快適さを実現するように努める。自分を生きるとはそういうことを指す。限られた時間を心ゆくまで使うこと。

般若心経。

 

必要があって般若心経について読んでいる。その教えがハイゼンベルクに一致していることに改めて驚いている。
ハイゼルベルクの著書、部分と全体(1974年)は、私の70年代における指導者の一人であった。
当時は歳の多い友人が、唯識はむずかしい、と語るのを頭でのみ受け止めるだけの力しかなかった。
それゆえに、自分が調べていた科学史の先輩たちの教えと、唯識の間の関連について思い至ることすらなかったのである。
今、この歳になって、仏教への関心が募り、また周囲の必要にも応えんとする意欲も拡大して、
般若心経に触れた時に閃光が走るほどの刺激を体験した。

受け止める。

 

疑問を持つことは重要である。それは解決に向かう最初の一歩である。
しかしながら、時として疑問を封じて、起きたことを現実をそのまま受け止めるということが、そのまま問題解決の道であったりすることもある。
そのまま受け止めるということは言葉で言うほど容易ではない。質問や疑いや説明を持ちたがる習慣にあるからだ。そして、そういう態度の方が論理的であるというように思い込まされているからである。
1人の人間が理解できる範囲のことには限りがある。必ずしもわかることばかりではない。判らないことは、時として放置するほうが良い。そこに問いを発生させると穴にはいこんでしまう。どれだけ調べても判らないことというのはある。
例えば、他人の心の中や頭の中というのは、どれだけ考えたところで、判るのには限界がある。関係に問題が生じた時には、その現実を受け止めるのが最も努力の要らない解決法である。一旦受け止めたところで、自分のその先の行末を考える。寿命は延びたとはいうものの、永遠には生きながらえるようになった訳ではない。必ず終わりがやってくる。判らない問題にしがみついて、問いを発し、その問いに対する答えを探そうとあぐねてもいたずらに時間が過ぎるだけ。期限付きの時間の無駄使いである。
始まりがあれば、それには必ず終わりが付いてくる。終わりを知らされた時に慌てるのは無様である。
終わりを知らされたら、それを受け止めてその先を試行する。過去には囚われない。
終わったものは終わったのである。それを認めることによって、終わったものが別の内容に変化して新たな始まりになることも多いにある。
わたくしたちの大方は、天候の変化をなぜなのかと突き詰めることに夢中になりはしない。先ほどまで燦々と照り続けていた太陽が暗い雲に隠れて雨が降り出しても、事実として受け止める。なぜ太陽が照り続けてくれないのかという思いに執着することはない。天気の変化は事実として当たり前に受け止める。
同じ思考を応用すれば良いのである。人生は長いようで期限がある。過去に執着して悶々とする時間はない。過去を振り切って先に進むことで、ある時、明確に物事の因果や経過が見えてくるものだ。

Leonardo Cohen

 

ジョンバエズは良く聴いた。コンサートにも行った。
ボブデイランも良く聴いたものだ。
そのボブデイランがノーヴェル賞に輝いたという。嬉しいことだ。
でも彼らのことは今となってはどうでも良い
レオナルドコーエンの前には誰もかなわない。誰も。
完全に虜になってしまった。
時間さえあればコーエンに聴き入って、心の琴線を揺り動かしている。まるで、10代の女の子のように。
この3曲が私を捉えて離さない。低く響く声、ライヴのヴィデオの画面に映る82歳のコーエンのチャーミングな仕草、特別なオーラ、知的な風貌、悟りを識る落ち着き、包み込むような温かさ、諮詢に満ちた言葉、何かを克服した体験を持つ人に独特の落ち着き、官能的な強い魅力。若年の彼にはほとんど惹かれない。声にも惹かれない。
強い魅力を放つのは80歳から82歳の彼である。
仕事に続く仕事の連続で、いつの間にかそうした日常のリズムを当たり前のものとしていた私の心を突き上げるように深いところから揺すぶって、感情を掘り起こしてくれた恩人である。今なお、彼の歌を聴くたびに涙が流れだす。毎回涙を流すたびに心の中の何かが動き、そして軽くなる。コーエンは治療薬でもある。
完璧な仕立てのシャツとスーツに身を包み、ボルサリーノをかぶって、地面に膝まづいて歌うコーエンの姿には、祈る人の感情がにじみ出ている。
11月7日、ニューヨークにいた私に、コーエンがロサンジェルスで亡くなったというニュースが届いた。
長いインタビューをしたいと思っていた。が、それももう叶わぬ夢となった。それが故に尚更、コーエンは私の心の中に生き続けるはずである。
合掌。

告白。

 

今日、久しぶりに映画を観た。告白、というタイトル。学んだこと。1。言葉数を減らすこと。2。少数派であることを恐れぬこと。3。周囲の言葉に幻わされぬこと。4。論理的、客観的に状況を判断すること。5。自分の意見に自信を持つこと。6。聞かれるまでは何も言わぬこと。7。何事にも動じないこと。8。感情をあらわにしないこと。9。最低の言葉数で表現すること。

S.C.ARTROOMの考え方。

S.C.ARTROOMの考え方。

 

イタリアのデザイン事情と日本のそれとの違いは、こちらでは基本的にデザインの行為が、デザインの論理に基づいていることです。デザインを行う人々が、各々、デザインの論理を言葉に託しても伝え得ることです。そしてまた、暮らしの中での美意識が明確であることでしょう。自分を取り巻く空間について、こちらでは妥協を許しません。その姿勢が明確な主張を持つデザインを生むのだと思います。

デザイン、アート、音楽、建築、、、などと細かく分業化してしまう
のは、様々な要素を持つ暮らしを切り取って単純化してしまうのと同じです。生き生きと感受性を駆使する生き方があって初めて、暮らしは総合的となり、楽しいものとなります。まずデザインを大切にするのではなく、まずは自分の暮らしを大切にする、感動を増やす生き方をする、ということが大切かと思います。

その人の暮らしの価値観が反映された空間がどのようなものであるのかを明確に理解できているか否かが問われるところだと思います。
すなわち、自らを理解できているのかどうか、自分自身を知っているのかどうか、が問われるということに他なりません。
形態や見かけやうつろいゆくものに囚われてそこで止まってしまう人がいかに多いことか。
デザインの行為というのは、自らを突き詰めるところにしか、あり得ないと思います。

私も、自分のスタジオの仕事を通じて、日々、訓練を続けております。
どうぞ、こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。

ふと思うこと。

 

世の中が仕組まれたものであることを、この年になるまで知らなかったというのは、 一体どういうことだったのか。 何とも、心もとない話である。 自分の無力感との戦い。 ニビル星からやってきたアヌナーキによって作られたという我々。 彼らの奴隷として作られたという、彼らに比べて劣性の生物たる我々。ミッシングリンクの謎。
。。。。。。。

明日から再開。

しばらく、この道具から遠ざかっていました。

様々な理由によります。

  • 先ず、あまりにスパムが多くなってしまったこと。
  • 誰が目を通すのやらわからないのに、心が感じたことを書き連ねることをふと疎ましく思ったこと。
  • 書くより、歩こう、と思ったこと。
  • 手で、ペンで書きたいと思い続けてきたこと。

ある方から、毎日次はどのような内容かしらと思い、待ち続けているという便りをもらったことが、

私の気持ちを再開に向けさせてくれました。

明日から日課といたします。

みゆき

 

 



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